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東京高等裁判所 昭和54年(ネ)1360号 判決 1980年5月29日

控訴人 甲野二郎

右訴訟代理人弁護士 森英雄

同 武真琴

同 橋本欣也

同 鈴木質

被控訴人 甲野春子

右訴訟代理人弁護士 菅原信夫

主文

原判決を取消す。

控訴人と被控訴人とを離婚する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、主文と同旨の判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張並びに証拠の関係は、控訴代理人において当審における証人月山春夫の証言及び控訴人本人尋問の結果を援用したほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  《証拠省略》によれば、控訴人(昭和一七年六月一日生)と被控訴人(昭和七年九月一二日生)は、昭和四一年初めころ、同じ訴外A株式会社に勤めていて知合いとなり、昭和四二年一二月ころから同棲するようになって、昭和四五年一二月二日に婚姻の届出をした夫婦であるが、昭和四九年九月二二日から別居している事実を認めることができる。

二  そこで、控訴人と被控訴人が、知合いとなってから別居するまでに至った経緯等について検討するに、《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  控訴人は、高等学校を卒業して訴外B株式会社に勤めた後、A株式会社に勤務して、昭和四一年ころには東京都武蔵野市境五丁目所在の都営住宅に、父訴外甲野太郎、母訴外甲野花子(明治二八年六月二三日生)、姉訴外甲野花代(昭和五年一二月三日生)と住み、毎月約一万円を家計費として母に渡していた。

2  被控訴人は、昭和三一年ころ訴外丙川月夫と婚約したが、同人から婚約を破棄されたため、同人に慰藉料を請求し、昭和四一年一〇月一四日、同人との間で、同人が五〇〇万円を同年一二月二〇日限り支払う旨の和解をしたものの、同人が右約定を履行しなかったので、昭和四二年に右約定の履行を求める訴訟を提起し(東京地方裁判所同年(ワ)第九八八号事件)、同年四月二七日、勝訴の判決を得た。

被控訴人は、そのころまで独りで東京都渋谷区代々木四丁月所在のアパートに住み、A株式会社に勤務していたが、丙川が、右判決に従い、そのころから毎月一〇万円ずつを分割して支払うようになったので、そのころ右会社を退職し、静岡県熱海市△△町所在の温泉旅館T館を事実上経営していた姉訴外乙山冬子(昭和六年三月二日生)のもとに身を寄せて、旅館の手伝いをするようになった。

乙山冬子は、昭和三四年三月二三日、訴外乙山夏代の養女となり、右旅館を事実上経営しながら実母の訴外丁山秋子(明治四〇年六月九日生)を引き取って養っていた。秋子は、かねてから高血圧症に悩んでいたが、昭和四二年ころから脳軟化症を患うに至ったので、同人の世話をするのには手が掛かるようになった。

3  控訴人と被控訴人は、昭和四二年一二月ころ、東京都新宿区四谷三丁目所在のアパートを賃借し、同棲するようになった。控訴人は、そのころ、被控訴人に対し、英語を勉強して貿易商を経営してみたいと考えているので、控訴人の将来性に賭けて投資してみないかと申し入れた。被控訴人は、これを承諾して、控訴人のために経済的援助をすることを約束し、まず、そのころから数箇月にわたって控訴人の母に対し、控訴人に代わって毎月八〇〇〇円ないし五〇〇〇円を仕送りした。

控訴人は、昭和四三年三月にA株式会社を退職し、同年四月からP英語学校に入校して英会話を学び、同年一〇月にはQ外語学院にも入学して実務英語を学んだ。控訴人は、右通学中、レストランのボーイをしたりして若干の収入を得たものの、その生活費及び学資等はほとんど被控訴人がこれを賄った。

控訴人は、昭和四四年三月に右両校を卒業して、同年四月に訴外株式会社Cに入社したが、同年一一月五日から二九日まで急病で慶応病院に入院した。控訴人は、それまでその居場所を家族(父母に)知らせなかったが、急病になるに及んで、これを知らせた。控訴人の母甲野花子と姉甲野花代が、四谷三丁目のアパートにやってきて、被控訴人と対面した。

4  控訴人は、昭和四五年七月から訴外D社に勤めるようになり、貿易商への手掛かりを得ようとしていたところ、被控訴人において丙川月夫からまとまった金員を入手し得る目処がついたので、これを資金として渡米したうえ貿易商の実務を学ぼうと考え、その計画を被控訴人に打ち明けて、その協力を求めた。

被控訴人は、控訴人の渡米計画の実現に協力することを約束したが、これまで約三年間控訴人と同棲してきたこと及び控訴人の渡米後は別居生活を余儀なくされること等に思いを致し、控訴人に対し、渡米前に婚姻の届出をすませることを求めた。そして、控訴人と被控訴人は、同年一二月二日、婚姻の届出をした。

5  控訴人は、昭和四六年四月にD社を退職し、同年五月に渡米して訴外E社に勤務するようになったが、右渡米に際し被控訴人は、控訴人のため諸費用として一〇〇万円を下らない金員を支出した(なお、控訴人は一五二〇ドルを携行した。)。

控訴人は、当初カナダのトロントに所在する支社に勤務し、月額四〇〇ドル弱の給料を得ていたが、同年一二月ころアメリカのニューヨークに所在する本社に転勤し、貿易商の実務を勉強した。控訴人は、その間倹約しながら何とか独立して貿易商を営みたいものと模索し、また、滞米期間中に被控訴人を呼び寄せて、同人に観光旅行をさせてやろうと試みた。

被控訴人は、控訴人の渡米期間中、四谷三丁目のアパートを賃借したまま、熱海市の前記T館に滞在し、その間丙川月夫から慰藉料の最終分割金として三〇〇万円の支払を受けたが、その全額を預金して、これらの預金には手を触れないで置こうと考え、控訴人から誘われた渡米旅行にも行かないこととした。

控訴人は、ニューヨークに滞在している友人と提携して貿易商の経営に乗り出すことを計画し、昭和四七年四月に帰国した。控訴人は、当初約一箇月東京に滞在してニューヨークに戻る予定であったが、予定を変更して東京に居住し、E社の東京事務所に勤務して貿易商に従事するようになった。

6  熱海市のT館では、乙山夏代が昭和四五年一〇月に死亡し、乙山冬子が相続してこれを経営するに至っていたが、被控訴人は、昭和四七年七月に冬子の資金援助を得て、東京都杉並区宮前×丁目×××番××宅地六九・三八平方メートルと地上の家屋番号六一二番六二の一木造亜鉛メツキ鋼板葺二階建居宅(床面積一階三四・二九平方メートル、二階二四・七九平方メートル)を代金一二〇〇万円で買い受け(冬子一〇〇〇万円負担、被控訴人二〇〇万円負担)、そのころ母丁山秋子及び控訴人とともにこれに入居した。

控訴人の母甲野花子は、そのころ被控訴人に対し、父甲野太郎の喜寿の祝の小宴を同年九月にしたいから控訴人夫婦で出席するようにと電話で申し入れた。被控訴人は、控訴人の父母姉の反対を押し切って控訴人と婚姻し、しかも、控訴人に対する経済的援助を一手に引き受けていたことを自負していたことなどから、控訴人の父母姉との間に意思の疎通を欠いていたうえ、ようやく自立しかけてきた控訴人が武蔵野市境五丁目の父母のもとに出入りすることに好感を抱いていなかったので、右喜寿の祝の誘いを受けるや、甲野花子に対し、電話で、今更喜寿の祝どころではないと出席を拒否する旨答えたうえ、同年九月一日発信の手紙(速達便)に、「私がこれまでに仕送りした金員と控訴人の入院の際に支払った金員を一日も早く返して下さい。控訴人は子として親に尽くしたのだから、親なら親らしく振る舞ってもらいたい。」とか、その他甲野太郎夫婦及び甲野花代らの人格を著しく傷つけるような文言を記載して、これを書き送った。被控訴人は、右の手紙を書き送ったことにつき、その直前の甲野花子との電話で激しい口論があり、自分の悪口を言われたことから、これに反発して書いたものであると弁解するが、その弁解は措信できないものであり、しかも、右の手紙の内容は度を越えた非難に満ちているものである。

7  控訴人は、E社における友人との協力関係に齟齬を来たしたことから、独立して事業を起こすことを計画し、昭和四八年二月、前記宮前×丁目の自宅(被控訴人所有家屋)に事務所を置き、Fという商号を用いて、ワッペン等洋品雑貨の輸入販売業を始めた。それは、控訴人がE社東京事務所からワッペン等の輸入商品を仕入れ、これを自分で東京都及び周辺の小売店に売り歩くという形態の商法であった。

被控訴人は、同年二月一三日発信の手紙を甲野花代に書き送ったが、その手紙には甲野花子や甲野花代に対する非難を書き連らね、同人らを著しく侮辱する文言を記載した。被控訴人は、その直前に五〇万円の資金援助にからんで甲野花代から非難の電話を受けたので、その腹いせに右の手紙を書いたものであると弁解するが、五〇万円の資金援助は後記のとおり昭和四九年五月ころの問題であり、被控訴人の弁解は到底措信し得ないものである。

乙山冬子は、昭和四八年七月に熱海市の旅館T館の不動産を売却してそこから引き揚げ、同月末日に宮前×丁目の被控訴人方に転居し、被控訴人らと同居するようになった。

そこで、控訴人は、同年八月、高円寺所在のマンションの一室を賃借して、Fの事務所を同所に移転し、更に昭和四九年四月ころFの事務所を五反田に移転した。

8  控訴人は、昭和四九年六月一〇日、本店を東京都品川区上大崎×丁目×番××号に置き、目的を洋品雑貨の輸出入業等とする訴外株式会社Fを設立して、その代表取締役に就任し、兄の訴外甲野一郎を右会社の取締役に就任させた。控訴人は、同年五月に右会社の設立資金として乙山冬子から五〇万円の融資を受けた。右会社は、設立に際し額面五〇〇円の株式を四〇〇〇株発行したが、控訴人が、事実上その全額を負担し、全株式を取得した。また、甲野一郎は、もと訴外株式会社Gに課長代理として勤務していたが、昭和四八年の後半から控訴人に頼まれてFの営業に従事するようになっていた。

被控訴人は、母丁山秋子の看護に掛り切って、Fの営業を手伝う余裕はなかったが、かねてから、控訴人に協力して貿易会社を設立することを夢見ていたところ、株式会社Fの設立に当たって、被控訴人がその取締役に推されることもなく、控訴人の兄の甲野一郎が取締役に就任したので、これを極めて不満に思い、その情を控訴人に打ち明けて、控訴人を詰るようになった。

そのため控訴人は、右会社設立直後の昭和四九年七月に乙山冬子に前記五〇万円を弁済した。

9  控訴人は、商用のため、昭和四九年八月一三日に渡米し、同年九月四日に帰国した。

被控訴人は、控訴人が、昭和四八年二月に独立してFの営業を開始し、同年八月にはその事務所を被控訴人の自宅の一室から高円寺の借間に移転して順調にその実績を挙げ、生活費も入れるようになってきたのを見るにつけ、控訴人が、実力を得て、被控訴人の手もとから次第に遠ざかって行くような気がして、不安に襲われるようになった。そのため被控訴人は、控訴人とさ細なことで口喧嘩をする際にも、被控訴人のこれまでの経済的貢献を強調し、控訴人の父母姉兄に対する敵意を表わして同人らを非難することが多くなった。また、被控訴人は、口喧嘩の際控訴人に対し述べたようなことを、控訴人の母姉兄のほか、控訴人の営業上の知人等にも電話等で吹聴した。控訴人は、自分の社会的信用が失墜することを心配し、また、関係のない第三者に迷惑を及ぼすことを恐れて、時に被控訴人に対し、控訴人以外の第三者に対し電話等で右のようなことを吹聴することを繰り返すようであれば、被控訴人と離婚しなければならないような事態に立ち至るかも知れないよと警告していた。

ところが、被控訴人は、控訴人の渡米期間中、控訴人の母甲野花子、姉甲野花代及び兄甲野一郎らに対し、夜間に嫌がらせの電話を多数回にわたって掛け続けた。

控訴人は、帰国後、母姉兄らから、被控訴人の嫌がらせの電話が繰り返されたことを聞くに及んで、被控訴人と離婚するのもやむを得ないものと意を固め、昭和四九年九月四日の後、前記宮前×丁目の被控訴人方において、甲野一郎及び乙山冬子に控訴人の意向を打ち明け、同人らとその収拾策を協議したが、合意に達するまでには至らなかった。

10  控訴人は、昭和四九年九月二二日の朝、もはや被控訴人方には戻るまいと決意して、身の回り品を置いたまま、同人方を出た。控訴人は、武蔵野市境五丁目の父母のもとに身を寄せ、その三日後に被控訴人を相手方として東京家庭裁判所に離婚を求める調停(同庁同年(家イ)第五二四八号夫婦関係調整調停事件)を申し立てたが、合意に達する見込みがなかったので、昭和五〇年一一月六日に右調停の申立てを取下げ、同月九日本件訴訟を提起するに至った。

なお、控訴人は、被控訴人との間に婚姻費用の分担につき調停を成立させ、その合意に基づいて被控訴人に対し、昭和四九年九月二五日から昭和五五年二月二九日までの月額三万一〇〇〇円の割合による負担金を支払ってきた。

ところで、被控訴人は、別居以来、控訴人が戻ってくることを期待し、過ちはこれを反省して、控訴人及びその父母らとの融和を回復し、控訴人との婚姻を継続したいと述べているが、他方、控訴人は、被控訴人の性格及び従前の言動等から見て、被控訴人が述べるような融和の回復は望むべくもない事柄であると述べ、被控訴人との破綻した婚姻関係を復元することは不可能であると述べている。

三  右認定の事実に照らして考察するに、被控訴人は、今なお控訴人との婚姻を継続したいと述べているが、控訴人と被控訴人は、前記認定の経過を経て昭和四九年九月二二日から別居し、その後家事調停手続及び本件訴訟手続において婚姻関係の解消をめぐる抗争を継続してきたものであって、控訴人の離婚意思が極めて強固であることに徴すれば、控訴人と被控訴人との婚姻関係は既に破綻し、その復元の見込みがなくなったものと認めるのが相当である。

そこで、被控訴人は、婚姻関係が破綻するに至ったものであるとしても、控訴人の本訴請求は棄却されるべきであると主張するので、婚姻関係を破綻に導くに至ったことにつき控訴人に主たる責任があったか否かについて検討する。前記認定の事実によれば、被控訴人は、昭和四二年一二月に控訴人と同棲をして以来、控訴人の将来性に賭けて惜しみなく経済的援助を続けたものであって、控訴人がP英語学校及びQ外語学院に通学中はその学費と生活費を賄い、控訴人が昭和四六年五月に渡米するに際してはその資金の大部分を捻出したのであり、被控訴人は、日常生活においても骨身を惜しまず家事等に従事したものと推認することができる。そして、被控訴人の右のような貢献があったからこそ、控訴人は、宿願の貿易商の基礎的知識を習得することができ、やがて独立して個人企業のFを、次いで株式会社Fを経営することができるに至ったものということができるのであり、これはまた、被控訴人がかねて控訴人に賭けたことの成果そのものであったということができる。したがって、控訴人の経営するF及び株式会社Fの営業実績につき、被控訴人が自分も多大の貢献をしたものであると考え、これを吹聴したとしても、これは無理からぬことであったと見るべきである。しかし、被控訴人が右の貢献度を控訴人に認識してもらいたいと思い、かつ、その貢献度に見合う地位を得たいと思う余り、前認定のようにその貢献度を過度に強調し、控訴人と父母らとの接触及び往来を妨げ、その父母らに敵意を表明して同人らを非難したことは、これをたやすく容認することができないものというべきであり、殊に被控訴人が控訴人の母甲野花子及び姉甲野花代に書き送った手紙は、同人らを著しく侮辱する内容のものであって、被控訴人においてこれを弁明する余地のないものであった。また、被控訴人が控訴人の営業上の知人等に前認定のような事項を電話等で吹聴したことは、控訴人の社会的信用を失墜させる事由になったものと見るのが相当である。

右のような経過を辿りながらも、控訴人と被控訴人との婚姻関係には深刻な対立が生ずるまでには至らず、控訴人は、時に被控訴人に対し、第三者へ無用の電話を掛けないようにとたしなめたにすぎなかった。しかし、控訴人が昭和四九年六月に株式会社Fを設立して、兄の甲野一郎をその取締役に就任させたことを切っ掛けとして、被控訴人は、その不満をあからさまに訴えるようになり、そのことが徐々に夫婦間の信頼関係を破壊させて行く原因となったものということができる。そして、控訴人が同年八月から九月にかけて渡米していた際、被控訴人が控訴人の母姉兄らに夜間嫌がらせの電話を繰り返し掛けたことが要因となって、控訴人は、被控訴人との離婚の意思を固め、一度は被控訴人の姉乙山冬子とその解決策につき協議をしてみたものの、合意に達しなかったので、同年九月二二日に被控訴人方を出て、以来別居するに至ったものである。なお、証人乙山冬子及び被控訴人本人は、被控訴人と控訴人が、同年九月一九日ころ渋谷の東急で映画を見、その帰りにアスターで食事をして楽しい時間を過ごした旨供述するのであるが、右各供述は、原審及び当審における控訴人本人尋問の結果と対比していずれも信用することができない。

してみれば、控訴人が被控訴人方を出て、被控訴人と別居する契機を作出したことについても、控訴人に専らの責任又は主たる責任があったものと見るのは相当でないものというべきであり、他にすべての証拠を精査しても、被控訴人との婚姻関係を破綻に導くに至ったことにつき控訴人に主たる責任があったとの事実を認めるに足りる証拠は見当たらない。

四  そうすると、被控訴人との間に婚姻を継続し難い重大な事由があるとして被控訴人との離婚を求める控訴人の本訴請求は理由があるから、これを認容すべきものである。

よって、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は不当であり、本件控訴は理由があるから、原判決を取消して、控訴人の本訴請求を認容することとし、訴訟の総費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 杉田洋一 判事 蓑田速夫 加藤一隆)

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